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 ホツマツタヱ~太古ヒタカミの神々~ALOAHの栞 [神代文字・ヲシテ]

   ホツマツタヱ~太古ヒタカミの神々~転載

               ALOAHの栞

    紫金の夜明け.jpg

こんにちは^ー^ALOAH-TICHOOアロアティクーです。今日のご縁に心から感謝致します。

ホツマツタヱという古文書は日本の神様(本当は人)がどのように働かれたのか。その始

まりの物語です。その古文書は神代文字という古代文字の中のヲシテ文字文字によって

書かれています。先日も少し触れましたが、三尾の大明神との不思議な夢を介しての出

会いから私は知ることになるのですが、私が国譲りのお話や、人種のルーツの詳細を追う

事が本命ではなくて、言霊の起源、歴史背景を知ることで本来の大和の魂、DNAの復興

がより進ものではないかとというところに重きを感じています^ー^

謀(はかりごと)で三尾大明神の元に置かれたホツマツタヱの一部だったとはこれまたハプ

ニングな事実ですが、100周年リストラとかいう夫のとんでもハプニングで奇しくも憧れの

艮の金神様の封印されておられた東北の地に飛ばされたおかしな旅を思えば、神様ごとと

は常に終わりよければすべてよしで、笑い飛ばせることばかりと今は菊理媛さまの領域で

ある神奈川後で次の神遊びのハッピーハプニングを心待ちにしている次第です^ー^

神代文字との出会いに絞れば、日高見国の存在が震災前に知ることができて、殊更、東北

の国津神々さまとの今生ではない約束が果たせた思いで迎えている2012年です。縄文の

世に生まれし神・人の霊感の祈りが込められた言葉で我が名の大明神のお名前を描いて

見れば、そこにこそ生まれる魂のタイムカプセルの魔法が浮き上がって来ると実感してい

す。どうぞ、みなさんも、御名の大明神の響きの中で、天命がまっとうされますように心ろか

らお祈り申し上げています^ー^

世界人類が平和でありますように。

御霊輝かされませ♡

         「秀真伝」が語る太古ヒタカミの神々


            121014_112905.jpg

                                古式懐しき日高見の石舟神社

                    歴史は日高見から始まる

 一九九四年、青森市郊外の三内丸山遺跡で今から約四五〇〇年前(縄文中期)の巨大木造建築跡が発見されるという事件があった。残された木柱の太さから推定して、そこにあった建物は高さ十メートル以上にもなったはずだという。
 さらに同じ遺跡の住居跡等の調査により、集落そのものの発祥は、その建築よりもさらに一五〇〇年ほど前(縄文中期)まで遡ること、しかもその集落の規模は縄文時代としては全国最大級であることなどが判明した。また、その柱穴の間隔は規則的で、八戸工業大学の高橋成侑教授はそこから三五センチもしくは七〇センチを基礎単位とする「縄文尺」の存在を推測している(『東奥日報』平成六年七月二九日、九月十五日、他)。
 これまでにも石川県のチカモリ遺跡や真脇遺跡、群馬県の矢瀬遺跡などで木柱跡が見つかっており、縄文時代の巨大建築の可能性がささやかれてはいたが、三内丸山遺跡での発見はそれを裏付けるものとなった。だが、太古東北地方における巨大建築の存在は、すでにある文献によって暗示されていたのである。その文献こそ、日本のイリアッドとも言われる叙事詩『秀真伝』である。
『秀真伝』第二紋によると、天地開闢、陰陽が別れた時に始めて現れた神をクニトコタチ(国常立尊)という。そして、この神が治めた国土をトコヨクニ(常世国)といった。クニトコタチはト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メという八降りの神を生み、それをトコヨクニから諸国土に派遣して治めさせた。これが諸国の王の始まりだという。各々の割り当ては明記されていないが、その内「ト」の神はハラミ山(富士山)に都を定めたという。
 また、「カ」の神が治めたという国から、ニシノハハカミ(西王母)が来日したという記述があるため、その範囲が西域方面を含む中国大陸であることはまず間違いない。
『秀真伝』の特徴は、この始源の場たるトコヨが天上の理想郷であるとともに、具体的な地上の国土でもあると見なしているところにある。それは陸奥国、ヒタカミといわれる領域であった。つまり、世界は日本、それも東北地方の一角から始まったというわけである。そして、『秀真伝』によるとその日高見国はまた天皇家の原郷・高天原でもあった。
『秀真伝』では繰り返し、古代の東北地方に巨大建築が造営されたことを語っている。その一つはクニトコタチが人民を生み出すための産屋としてであり、それはまた神社建築の起源でもあったという(第二一紋)。また、出雲の国譲りの後、津軽岩木山のふもとに隠退したオオクニヌシが、造営したという大本宮の話もある(第十紋)。
 六国史などの正史では、東北地方といえば、大和朝廷による侵攻と征服の対象としてのみ語られており、そこに高度な文化があったことは認められていない。そうした東北地方観は今もなお尾を引いている。たとえば現代の蝦夷征伐といわれる六ケ所村核燃基地問題などにも、東北地方への蔑視が再生産された形で反映しているのではないか。
 それだけに『秀真伝』の日高見高天原説は、単に古代史の異説として興味深いだけではなく、現代的な意義さえ帯びているといえよう。

                    タカミムスビの日高見国統治

「日高見国」という国名の文献上の初出は『日本書紀』景行天皇二七年、東国視察を終えた武内宿禰の報告の中にある。
「東の夷の中に、日高見国有り。其の国の人、男女並びに椎結け、身を文けて、為人勇み悍し。是を総べて蝦夷と曰ふ。亦土地壌えて広し。撃ちて取りつべし」
 また、景行天皇四十年には、日本武尊が東国遠征からの帰途、陸奥国から常陸国に入るところで「日高見国から帰りて」という一節がある。これで見ると景行紀では、日高見国は常陸国よりも北にある国土とみなされていることが判る。ちなみに北海道の地名「日高」は明治時代、景行紀の日高見国にちなんでつけられた名である。
 一方、『釈日本紀』『万葉集注釈』所引の『常陸国風土記』逸文には、日高見国とは常陸国信夫郡の古名であるとされている。『常陸国風土記』序文には「古の人、常世国といへるは、蓋し疑ふらくは此の国ならむか」という一節があり、常陸国と常世国を結びつける伝承もあったことがうかがえる。しかし、『秀真伝』に関する限りでは、そのヒタカミおよびトコヨは陸奥国を指すとみるのが妥当である。
 クニトコタチからヒタカミを受け継いだのは、記紀神話でもおなじみの高木神ことタカミムスビ(高皇産霊尊)であった。タカミムスビはヒタカミから富士山をはじめ世界各地に降臨した天八降りの神の統治を助けた。その時、タカミムスビはトコヨを象徴する木である橘を富士に植えさせたため、富士山は橘香るカグヤマ(香久山)として讃えられた。
タカミムスビの第五世は、天上に座す四九柱の神々をヒタカミの地に勧請して祭った。以来、ヒタカミは地上の高天原となり、国は栄え人々の暮らしはうるおった。そのため、タカミムスビ五世はトヨケと呼ばれることになる(伊勢外宮の祭神・豊受神のこと)。
 ある時、トヨケは人民の数が増え過ぎたため、それを統治できるだけの神がいないことを嘆いていた。トヨケの娘イサナミは、その父の嘆きを鎮めるため、自ら世嗣の御子を産みたいと申し出た。トヨケは喜んで、葛城山に斎場を造り、天からの子種が得られるように祈った。これは現在の奈良県葛城山系、金剛山の中腹にある高天彦神社(祭神・高皇産霊尊)の起源説話であろう。この神社は高天原旧蹟という伝説があり、葛城王朝発祥の地として鳥越憲三郎から注目された所である。

                        男神アマテルの誕生

 さて、イサナミは夫のイサナキと共に諸国を廻り、神々を産んだ。二人の結婚の儀が行われたのは常陸の筑波山であった。しかし、その最初の子は女子であったため、岩楠船に乗せて捨てられ、摂津国の住吉神に育てられた。この女神をヒルコ(蛭子)またはワカヒメ(和歌姫)という。この漂流譚は現兵庫県西宮市の西宮神社、通称「エベッさん」の起源説話らしい(祭神・蛭子神)。
 イサナミは次の子を流産した後、富士山でイサナキとの婚儀をやり直し、ついに望む男子を産んだ。それは日神たるウヒルキ(大日霊貴)である。この神はアマテル(天照大神)とも呼ばれ、富士山に留まることになった。なお、記紀では周知の如く天照大神は女神であったとされている。この神を男神とするのは『秀真伝』の特徴である。ちなみに記紀の天照大神の女性的要素が、『秀真伝』では、ヒルコの属性とされているらしい。
 次にイサナキたちは筑紫でツキヨミ、熊野でソサノヲを産み、この一女三男の神に天下をまかせることにした。
 さて、『秀真伝』第四紋によると日神は生まれた時、エナに包まれ、まるで卵のような姿で生まれたという。トヨケはそれを瑞兆として喜び、自ら櫟の木の枝でエナの中から御子を取り出すと、シラヤマヒメ(菊理媛ともいう。加賀一の宮白山神社の祭神)に預け、産湯をつかわせた。神官の持つ笏が櫟に定められたのは、この故事によるという。
 これは中国や朝鮮の神話によく見られる卵生伝承(王朝の始祖が卵から生まれたという神話)を連想させる。また、イタリアの歴史学者カルロ=ギンズブルグによると、エナを被ったまま生まれた子供は長じて優れたシャーマンになるという観念はヨーロッパから東アジアまで汎ユーラシア的分布を示しているという(竹山博英訳『ベナンダンティ』せりか書房)。いずれにしろ、この種の異常出産は聖者の誕生にはつきものの話である。
 アマテルはヒタカミのヤマテ宮で、トヨケから天の道を学び、長じては富士山に最初の都をおいた。その後、アマテルは伊勢の伊雑宮に遷都し、皇太子オシホミミを得た。
 だが、アマテルの十二后の一人、ハヤコが熊野のソサノヲと密通し、彼をそそのかして反乱を起こさせた(第七紋)。反乱が鎮圧された後、反省したソサノヲは今度はハヤコの怨念が凝り固まった八岐大蛇と戦い、さらに反乱軍の残党を自ら討って朝廷に赤心を示した。こうしてソサノヲはヒカワ神の名を賜い、出雲に鎮まったという(第九紋)
 このあたり、『秀真伝』の語り口は、素朴な神話というよりも、浄瑠璃の王代物を思わせるものがある。実際、このソサノヲの活躍には、近松の『日本振袖初』から借りたとおぼしきモチーフが見られるのである(拙著『もう一つの高天原』参照)。
 ちなみに出雲大社本殿の背後には須佐之男命を祭る社がある。また武蔵一の宮氷川神社の祭神も須佐之男命である。

                          ヤマテ宮はどこか

 オシホホミは即位後、都をトヨケの故地、ヒタカミのヤマテ宮の跡に置くことにした。その都はまたタガのコフとも名付けられたという。さて、このヤマテ宮とは、いったい何処のことであろうか。「ヤマテ」を仙台の訓読みとすれば、それは現在の宮城県仙台市方面に求められることになるであろう。『秀真伝』においては、漢語をむりやり読み下したような語彙は、他にもしばしば見受けられるところである。また、仙台をあえてヤマテと読むことで「邪馬台国」と関連付けるつもりだったのかも知れない。
 日本では新井白石や本居宣長が研究を始めるまで、邪馬台国の名は魏志倭人伝よりも、むしろ日本の未来を予言したという『邪馬臺詩』の方でよく知られていた。
「タガのコフ」を多賀の国府、すなわち多賀城(多賀柵)のことだとすれば、そこから仙台市までは十キロほどしか離れていない。有名な多賀城碑文によれば、この城は神亀元年(七二四)、陸奥按察使の大野東人によって置かれたものだという。
 もっとも仙台とは、もともと青葉城が国分市の居城時代、千代城と呼ばれており、それを伊達政宗が仙台城と置き換えたところから生じた地名だそうだから決して古いものではない。多賀城の国府もまた、当然ながら神代まで遡りうるものではない。この種の時代錯誤は「古史古伝」では珍しいものではなく、むしろその真の成立年代を考察する上での貴重な手掛かりとなりうるものである。

                     日高見国の衰退とヤマトタケ東征

 だが、オシホミミが皇子のホアカリとニニギを西方に派遣した後、ヒタカミは次第に衰微し、逆に西日本ではニニギの子孫である大和朝廷が勃興してきた。『秀真伝』第三七紋によると、タジマモリは垂仁天皇からトコヨに派遣されたが、彼が帰朝した時、天皇はすでに崩御していた。彼は嘆き悲しみ、朝廷がヒタカミとふたたび友好を結ぶための方策を遺言してこの世を去った。タジマモリの常世国往来は記紀にも語られているが、その所在は明らかにされていない。それに対して『秀真伝』はそれをヒタカミと明記している。
 景行天皇の皇子ヤマトタケ(日本武尊)は、タジマモリの遺言に導かれて、東征の旅に出た。ヒタカミの長ミチノクは津軽の長シマヅミチヒコ、東北諸国の国造五人、県主百十四人とともにヤマトタケの征旅を阻もうとした。ミチノクは筑紫から出て大和を奪い、いままたヒタカミをも奪おうとする大和朝廷の侵略性をなじった。
 それに対してヤマトタケは、神武天皇の東征はナガスネヒコの反乱を鎮めるためのやむを得ない措置だったと述べ、ミチノクにその用いている暦を聞いた。ミチノクが伊勢の暦だと答えると、ヤマトタケは、日神を祭る伊勢の暦を用いている以上、その伊勢の暦を用いるのは当たり前だと説いた。ミチノクは抗弁することができず、ヤマトタケに服することになった。ヤマトタケはミチノクとシマヅミチヒコを改めて現地の長に任じた。
 以上の問答は『秀真伝』第三九紋に記されている。話は飛ぶが、『将門記』によると平将門が挙兵して新皇を称した際、彼はその王城に八省百官を置いたが、ただ暦日博士だけを置くことはなかったという。時間の支配は国家の特権である。逆に言えば時間に支配を及ぼせない国家は将門の坂東国家の如く不徹底なものにならざるを得ない。ヤマトタケはミチノクのその不徹底さをついたというわけである。
 ヒタカミとの国交を回復したヤマトタケは、帰朝の途上で死ぬ。皇子の死を悲しんだ景行天皇はその足跡をたどって東国を巡行し、夢にヤマトタケがヒカワ神(ソサノヲ)の転生であることを悟って、『秀真伝』全四十紋は終わる。その結末を見ると『秀真伝』とは本来、ヤマトタケに捧げられた長大な鎮魂歌だったのではないかと思われてくる。

                        『秀真伝』の可能性

『秀真伝』は近世以降、一部の僧侶や神道家の間で、神書として珍重されていたものである。それが「古史古伝」研究者の話題に上るようになったのは、昭和四一年、松本善之助が古本屋の片隅でその写本の一部を見つけ、解読と探究に乗り出してからである。
 その著者はオオタタネコに仮託されている。記紀によればオオタタネコは三輪氏の祖、三輪山の神の子もしくは子孫であり、崇神天皇の御代に流行った疫病を祓ったという人物である。『秀真伝』はそのオオタタネコが景行天皇に捧げたものだという。
 しかし、先述したような時代錯誤の記述や近世以降の語彙なども散見されるため、実際の成立ははるかに新しいものと思われる。おそらく、これを最終的に完成へと導いたのは、安永年間(一七七二~一七八〇)の修験者・和仁估容聰こと井保勇之進であろう。
 この人物は家伝の書と称する『秀真伝』を、近江国高嶋郡産所村の三尾神社(現在は廃社)に奉納した張本人であり、さらに宮中にも献上せんとしたと伝えられている。
 彼が住んだ高嶋郡一帯には、『和解三尾大明神本土記』『嘉茂大明神本土記』『太田大明神本土記』『子守大明神古記録』『三尾大明神略縁起』『万木森薬師如来縁起』など、内容や用語に『秀真伝』と共通性のある寺社縁起が数多く残されている。これらは一見、『秀真伝』の傍証となるようだが、実は、井保勇之進は大正十五年の『高島郡誌』で、すでに寺社縁起偽作の常習者として、名指しされているのである。偽書作成に際し、傍証となる品を神社などにあらかじめ納めておくのは、よくある手口の一つにすぎない。
 しかし、『秀真伝』の現存テキストが安永年間頃の成立だとしても、それでこの文献のすべてが無価値になってしまうというわけではない。
 今から十五年も前、『秀真伝』の再発見者たる松本を囲んで、この文献の研究者たちが座談会を開いたことがあった。その席上で、ヒタカミの所在を旧満州方面に求めようとする鹿島曻氏に対して、松本は次のように答えている。
「私は反対です。その一つの根拠は、(陸奥国に)式内社が百もあるという事実です。千年も前に百社もあったということは、東北がかなり前から開けていたことの証拠であります。それから縄文土器が東北にたくさん出ておりまして、西の方よりも早く開けたということが言えると思います。しかも『秀真伝』全体の感触から言って、日高見というのは他の国よりもずっと古い。高皇産霊神から始まっておりますから、東北ということは動かないと思うのであります」(「『秀真伝』の諸問題(続)」『歴史と現代』第一巻二号)
 弥生時代以降はいざ知らず、縄文時代までの日本文化が東高西低であったことは、すでに考古学的に証明されている。三内丸山遺跡の発掘はそのダメ押しホームランに他ならない。『秀真伝』はこれを予見していたのである。特異な伝承の書として、あるいは近世の神道神学の書として、『秀真伝』は今後いっそう研究される必要があるだろう。 

                       2000  原田 実

         http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/text4.htm

              images.jpg

                 原田さんありがとうございました^ー^

 北・東日本に集中する縄文遺跡******************

縄文初期(1.2万年前~8000年前)の遺跡は、九州と北・東日本に分布しています。このうち、九州遺跡群は貝文土器文化と呼ばれ、南方出自のC1系統だと考えられます。但しC1系統は、6300年前の鬼界カルデラ火山の噴火で壊滅的な打撃を受けます。
縄文中期以降(6000年前~)の遺跡は、北・東日本から西日本に広がっていきますが、縄文時代全体としては、遺跡の8割が北・東日本の落葉広葉樹林帯に集中します。

※画像引用元『比較分化史』

縄文時代の遺跡が北・東日本に集中する事実は、落葉広葉樹林帯の

食料資源とのかかわりで説明されていることが多いのですが、食料資

源を出自との関係から捉えてみます。縄文人の日本への流入・移動

の状況を、

『人口構成比の試算』『気候変動と植生の変化』

のグラフに当てはめると、面白い事実が浮かび上がります。

【草創期】 1.2万年前~ 寒冷化に伴い、ユーラシア大陸から朝鮮

半島~九州に南下
【初  期】 1.0万年前~ 温暖化に伴い、北・東日本に北上
【中  期】 6000年前~  寒冷化に伴い、西日本に拡散

縄文人は気候変動に応じて、落葉広葉樹林帯を追いかけるかのごとく、

日本へ流入・移動しています。

 ∴こうした事実から、縄文人(D2系統)は、日本に流入する以前に

ユーラシア大陸で北方適応していた!と考えた方が自然ではない

でしょうか。

         0021.jpg 

 


コトタマの宇宙と神代文字・縄文ヲシテ文字をたずねて [神代文字・ヲシテ]

        コトタマの宇宙と神代文字

     縄文ヲシテ文字をたずねて

             未来からのタイムカプセル?

mariko_mori-1.jpg

こんにちは!ALOAH-TICHOOです^ー^。毎日リアルなファンタジーをおすごしでしょうか?

宇宙との対話を言葉で表すとき、人間ばかりではなくて、精霊や神様。もっと言えば、天を司る

天津神々、地を司る産土・国津神々様、総じて八百万の神々様と交流できる共通言語は?

と辿れば・・・・・^ー^

ヲシテ文字も神・人のパイプとなる重要な絆だと感じています。ホツマツタヱという古文書が

ありますが東北にご縁あって転勤した中で、奇しくもなぜか朝方の夢で導かれたのは、近

江の十一面観音様の元にあったその古文書でした。

最近になり近江と、日高見の国東北との繋がりが塩竈(シオガマ)神社で結ばれました。

(塩竈神社は、皇后美智子さまも、安産のお参りにご参拝されたそうです。

遥か古来から日本のご先祖さま方はお互いの国土を自由自在交流していたそうです。それと

ともに神々様とも深い交流を結んでいたようです。私の想像ですが、縄文の国造りにあって、

戦いではなく、話し合いで国ゆずりは為された。というお話を聞いたことがありますが、ヲシテ

文化の底辺に流れている意識や当時の文化交流をハートで見るとき、私もその言葉がごく

自然な歴史なのではないかと素直に感じます。

神・人一対の絆となっていたものがこのヲシテ文字の発祥の意識はとても美しい流れです。

文字が神様と人との絆なら、その叡智は日本の大切な宝物ですね。

先週は、エンジェルナンンバー始め13ー33ー333数字の暗号など取り上げてまいりまし

たが今週は、次元のゲートを文字やコトタマにて渡る旅を提案したいと感じています^ー^♪

縄文の魂は、私たちの魂の記憶にも必ず息付いているはず!

ヲシテ文献(ホツマ)の世界へようこそ☛http://www.zb.ztv.ne.jp/woshite/

<タイムカプセルとしてのヲシテ文字>

宇宙存在のウィングメーカーという存在は彼らがタイムカプセルについて興味深いことを語っ

ています。

ウイングメーカー3 (VOICE新書015)

「人間の3つの知性」を活性化について
壁画は右脳と左脳の統合、音楽は「ボディ・インテ リジェンス」の活性化、

詩は「ハート・インテリジェンス」を着火させる。
タイムカプセルの真の目的は、3次元5感覚の社会化された人類から、

多次元7感覚のソース・インテリジェンス(神の知性)との接続に気づいた進 化

した人類「サヴァリン・インテグラル」へと変容させることれること・・・・

「タイムカプセル」は起源、始動のエネルギーや叡智とすれば、きっと、ヲシテの文字も日本人

にとっては大切なタイムカプセルなのではないでしょうか?

古文書ホツマツタヱやそこに使われている古代文字、縄文文字との不思議な出会いに何か

感謝ができるとしたら、少しでもたくさんの皆さんに、遥かな時間を超えて浮かび上がってきた

このタイムカプセルを紐解いて見てください^ー^。きっと、大切な記憶が蘇ってくることでしょう。

ハートの中心から!!魂のの黎明を迎えていきましょう!!

                全ては完璧!欠けたるものなし!大成就

                御霊輝かされませ^ー^♪

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縄文文字ヲシテを紐解く

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